2009年5月4日(月) 天候 晴のち雨

 今朝は7:30頃に起床した。今日はつソロ市内を回ってから次の目的地へ向かうつもりであった。まずは朝食を取るべくホテルのレストランへ向かった。朝食はバイキング形式で、品揃えが多かった。昨日と同じくツーリングではなかなか食にありつけないという思いから、かなり多く盛り付けをしてしまった。テラス側の席に座ったので、ホテルの中庭の景色を眺めながら優雅?に朝食を食した。周りに座っていた人たちはインドネシア国内の割と裕福そうな人たちであり、私のようなバックパッカーには少し場違いなような感じであったが、気にせずにくつろいだ。

 朝食も終えたところで、満腹となっていたのでホテルのロビーでしばしくつろいだ。ロビーはインドネシアの宮殿風?であったので優雅な気分となった。その後、ソロ市内に繰り出すことにした。ホテルのチェックアウト時間が12:00までということであったので、荷物を部屋に残して出発した。まずはバイクのガソリン残量がほとんどなかったので、ガソリンスタンドを目指した。インドネシアに限らず、都市中心部にはガソリンスタンドが少ないため、昨日スクー寺院に向かった道をホテルから2〜3kmほど走ってようやくガソリンスタンドにたどり着く有様であった。ガソリンは4500ルピー/Lであり日本よりかなり安値であった。(インドネシアの物価水準からするとそれほど安くは感じないかもしれないが・・・) さすが産油国だけあって、他の東南アジア諸国よりも安価だと感じた。(私が知っているのは台湾・ベトナム・ラオスぐらいだが・・・)

 ガソリンを満タンにしてまず目指したのは、カスナナン王宮とマンクヌガラン王宮であった。ひとつの都市に二つの王宮があるのは次の理由からである。1745年に新マタラム王国のバク・ブオノ2世がソロに遷都した際に、まずはカスナナン王宮(南の王宮)が建立され、1755年に新マタラム王国がジョクジャカルタ王国(スルタン王家)とスラカルタ王国(ススフナン王家)とに分裂した後、さらに1757年スラカルタ王国が二つに分裂(ススフナン王家とマンクヌゴロ王家)したとき、分離した王家(マンクヌゴロ王家)が新たに建立されたのがマンクヌガラン王宮(北の王宮)である。少し複雑である。ちなみに、1745年の遷都のときにソロはスラカルタと改称しているが、地元ではいまだにソロという名称も広く使われている。

 まず到着したのはマンクヌガラン王宮であった。入り口にバイクを駐車し、受付で入場料10千ルピーを支払い入場者名簿に記帳した。私が訪れたのは9:30前だったが、名簿の中に日本人がすでに訪れていたのは驚きであった。このような地方都市に日本人の名前を見るとは思わなかった。受付にてガイドを付けると言ってきたので、最初は断ったが、ボランティアでやっているということで承知した。やってきたのは学生風の女性であった。お互いの自己紹介をしたが、彼女は日本語学校の学生だということであった。

 

 

 

日本にはまだ行ったことはないが、ぜひ行ってみたいとのことであった。特に秋葉原に行きたいそうだ。日本のアニメの影響力の大きさを改めて実感した次第であった。早速王宮の中を女性に案内してもらった。メインの宮殿の中は撮影禁止だったので写真が残せなかったが、天井が広いのが印象的であった。彼女にいろいろ説明してもらいながら王宮の中を周った。彼女は日本語学校で学び始めて半年とのことであったが、簡単な会話は十分に行うことが出来た。通じないところは英語でコミニケーションを色取った。様々な調度品が展示されていたが、日本の刀なども展示されており、国際交流の深さを感じた。ちなみに今でも王族の子孫の方々が王宮内に暮らしているということであった。王宮内をくまなく見て周った後、最後にアドレス交換をしてマンクヌガラン王宮を後にした。

 喉が渇いたので機関車が展示されている通りの近くのスーパーでドリンク(コーラ+緑茶+水=2700+3675+2250=8625ルピー)を購入してから、次に向かったのはカスナナン王宮であった。カスナナン王宮へは一旦SLAMET RIYADI通りに出て,独立記念の像?を過ぎてすぐにKAMANDANDUNGAN通りに入ったところにあった。周りの建物より目立つ時計台?が目印となった。駐車場にバイクを停め、受付で入場料+撮影代(10000+3500ルピー)を支払った。入り口は受付から2〜3分ほど歩いたところであった。中に入り、まずは博物館となっているところを見て周った。ここでは王族の調度品のほか、

 

 

 

 

 

ジャワ島の歴史?を紹介した人形なども展示されていた。また、この王宮も王族の子孫の方々が住んでいるという。ジョグジャ・ソロの両方の王族に言えることだが、オランダの支配を受けながらも王朝の系統を絶やさずに現在に至っているのには驚きであった。博物館の次は宮殿に向かった。宮殿の庭の入り口で履物を脱がなければならなかった。

 

 

 

 

履物を脱いで中庭に入ったが、庭一面に砂が敷き詰められていて歩き心地は良かった。残念ながら宮殿の建物は立ち入り禁止なので、外から宮殿を眺めた。ジャワとヨーロッパの文化が融合された様式であった。オランダ東インド会社の支援を受けて建立されたのでこのようになるのだろう。18世紀当時の政情を如実に現しているよう思えた。記念撮影などをして、カスナナン王宮を後にした。

 カスナナン宮殿の周りの通りは、オランダ植民地時代の雰囲気を色濃く残していた。行き交うペチャやバイクの交通量もメイン通りに比べて少なく、ゆっくりとした時間が流れていた。記念撮影などをしてホテルに戻り、出発の荷造りをして、12:00前にホテルをチェックアウトした。

 バラパン駅に立ち寄り記念撮影をして、コンビニでドリンク(緑茶 5750ルピー)を購入し、次の目的地へ走り出した。目的地はウォノソボであった。インドネシアの道路は標識等も少ないので、市街地を抜けるのに少し手間取ったが、何とかセマラン方面の案内標識を見つけ、セマラン方面の国道に抜け出した。昨日走ってきた道でなんとなく見覚えのある風景があったので一安心した。片道二車線で快適に距離を伸ばすことが出来た。しばらく走るとBOYOLALIの街を示すモニュメントを確認したので立ち止まると、ボロブドゥール方面の行先を示す案内標識を見つけたので左折した。本来なら昨日走っていたはずの道であった。道路は次第に山の中に入っていった。周りの山々は山頂まで段々畑として開発されていた。

 

 

 

 

 

 

典型的なジャワの農村風景のひとつであった。途中農家の方に道を尋ねたりしながらひたすら山の中を走った。山の中と言っても前述したとおり山は段々畑が開発されているので、うっそうとしたものではなかった。

 ひたすら走り続け、AIR TERJUN KEDUNGKAYANGという所の近くを走りぬけると、次第に道路は標高を下げていった。いつの間にか田んぼが広がる風景となった。このような風景も、段々畑と並ぶ典型的なジャワの農村風景のひとつであろう。しばらく景色を眺めた後、MUNTILANで国道14号に合流し、北へ向かった。15:30頃であった。MAGELANGを通過し、SECANGでTEMANGGUNG方面に左折しひたすら走り続けた。TEMANGGUNGを通過し、PARAKANにてWONOSOBO(ウォノソボ)方面の案内標識が見えたので、標識に従い進んだ。

 PARAKANでガソリンを補給し走り出したところで雨が降ってきた。南国特有のスコールで土砂降りだったので、道路わきの建物の軒下で合羽を着込んだ。合羽はバイクレンタルのときについていたものでマントのようになっていてカブタイプのバイクにはぴったりであった。雨は止む様子もないので再び走り出した。時刻は17:00を過ぎており、周りも次第に暗くなってきた。高地ということもあり気温も次第に下がってきて寒いくらいであった。周りがすっかり暗くなった18:30過ぎにようやくウォノソボの市街地らしきところに入っていった。

 中心部となるバスターミナルが分からなかったので、交番にて警察官に道を尋ね(英語もあまり通じなかったが・・・)何とかS.PARMAN通りのバスターミナルを見つけた。私の持っていたガイドブック(地球の歩き方)ではウォノソボ市街の地図が掲載されていないので、バイクで走りながら今夜の宿を探した。(左にホテルでもらった名刺にあったウォノソボ市街地図を添付します) 何となく雰囲気がよさそうなホテルを見つけたので、疲れていたこともあり即決した。ホテルはTHE SURYA ASIA HOTELという、私の見つけた限りではこの街で良いほうのホテルに思われた。ホテルの駐車場にバイクを駐車させ、チェックイン(部屋はツインでエアコンなし 朝食付き一泊292500ルピー)して部屋の中に入った。時刻は19:30となっていた。中庭も洒落た感じで、バックパッカーにはまたしても場違いな感じもしたが、疲れていたので部屋に入りくつろいだ。ウォノソボは少し寒いくらいだったので、エアコンは不要であった。この日はくつろいでいるうちに寝てしまった。

(走行距離:185.4km)

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