2010年12月28日(火) 天候 晴

 朝は6:30前に起床した。前日は早めに就寝したので、目覚めは快適であった。7:00の朝食の時間となったので、1階のレストランに行き、テーブルに着いた。レストランはアラブの洒落た広間のような造りであった。間もなくしてウェイターが、パン・コーヒー・ミルク・バター・ジャムを運んできた。モロッコはフランス保護領時代の影響があるのか、朝食のスタイルも欧米風であり、当然のようにフランスパンが付いてきた。(一般家庭はどうだか分からないが・・・) 出されたパンを素早く食し、パンのお替りもして満腹となったところで、一旦部屋に戻り身支度をした。旧市街に行くためであった。

 7:30頃にホテルを出発した。ホテルのすぐそばでプチタクシーを拾い、旧市街のブー・ジュルード門(Bab Bou Jeloud)を目指した。タクシーは朝日に照らされたリベルデ通りを走りぬけ、10分弱で門の前に到着した。(16DH) 到着後、門の前で記念撮影をして、早速メディナに突入した。フェズの旧市街である、フェズ・エル・バリ(Fez el Bali)は、イドリース朝第二代スルターンのムーレイ・イドリス2世により西暦808年に首都として建設された、モロッコ最初のイスラム王朝の都である。1981年には世界遺産にも登録されている。

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

タラア・セギーラ通り→ベン・サフィ通り→ゼカケル・ハジャール通りをひたすら歩いた。メディナ内の道は細く入り組んでおり、しかも周りの建物が光を遮っており薄暗い。まさに「迷宮」と呼ぶのにふさわしい。家々の門の、木の扉の彫り物やタイル張りなどが美しい。そうしているうちに、スーク・ダッバーギーン(Souk Dabbaghin)に到着した。いわゆるなめし革染色職人街で、観光客にはフランス語のタンネリ(Tanneries)という呼び名で知られている、フェズ観光の大きな目玉である。作業場を見たいと思っていたところ、男が声を掛けてきて、「付いて来い」というので付いていくと、一軒の店に到着した。店の主人曰く、100DH でどうだというので、話にならないというと、50DHまで負けてきた。しかも、何かを買わなければならないらしい。見るだけでこれだけ支払うのはばかばかしいのですぐに撤退した。

 先ほどの50DHは論外としても、作業場は制覇しておきたいと思い、少し辺りを徘徊していたところ、別の男が声を掛けてきた。私は写真を撮りたいだけというと、5DHでどうだと言って来たので、ここが妥協のしどころだと思い承諾した。店の中に入り、2階のベランダに案内された。

 

 

 

 

ベランダからは、作業場の様子が一望できた。朝早くから作業場は活気にあふれていた。フェズに来たならば必ず押さえておかなければならないポイントを制覇することが出来たので満足した。

 

 

 

タンネリを制覇したので、サファリーン広場(Plaza Seffarine)に戻り、カラウィン・モスク→サヴィア・ムーレイ・イドリス廟→ネジャーリン広場の順に周った。イドリス廟では丁度日本人ツアーと鉢合わせになったので、日本語ガイドの話を聞きながら周ることができた。サヴィア・ムーレイ・イドリス廟(Zaouia Moulay Idriss)は、フェズを建設したムーレイ・イドリス2世の墓があるため信仰の対象となっており、現在でも修道院としての機能を有している。非ムスリムは入場出来ないので、入り口から見学した。建物中は色とりどりのモザイクタイルで覆われていて見事であった。

 

 

 ネジャーリン広場からはシュラヒリン通り→カニトラ・ブー・ルース通りを経て、ブー・イナニア・マドラサ(Medersa Bou Inania)にたどり着いた。ブー・イナニア・マドラサは、マリーン朝第12代スルタンであるブー・イナニアにより、1350年に建立された神学校で、マリーン朝で最大のものとなっている。ちなみに、世界史で習ったイブン・バットゥータの「旅行記」は、このブー・イナニアの命により1355年に記載されたものである。(「ブー・イナニア」はベルベル語。アラビア語では「アブー・イナーン」。) 入場料10DHを入り口で支払い中に入った。

 

 

 

 

水盤のある中庭の四方を囲む形壁面には、モザイクタイルや木彫りの幾何学模様で覆われていて見事であった。また、内部には入れないが建物の入り口から中を覗くと、ステンドグラスが室内を照らしていて幻想的であった。しばらく見学して、ブー・イナニア・マドラサを後にした。

 ブー・イナニア・マドラサからブー・ジュルード門に戻ってきた。時刻は9:40になっていた。次の行程もあるので、そろそろホテルに戻ることにした。プチタクシーを拾い、リベルデ通りを走りぬけ10:00前にホテルに戻ってきた。(15DH) 部屋に戻り、荷造りをして、チェックアウトした。駐車場からバイクを出して、ホテルの前で記念撮影をした。本当はフェズをもう少しバイクで周ろうかとも考えたが、次の行程が気になったので、そのままフェズを去ることにした。(旧市街も十分に堪能したので) 時刻は10:50を過ぎていた。

 

 

 ムハンマド5世通りを経て、N8に合流した。ガソリンが空になりかけていたので、N8沿いのスタンドで補給した。スタンドはCMH(Cie Marocaine des Hydrocarbures:モロッコ炭化水素株式会社)のものであった。 補給後、南へ向けて走り出した。走行中、道端の至る所で警官が立っており、またモロッコ国旗も至る所に立てられていた。走り続けているうちに、N8はモワイヤン・アトラスに入っていった。さらに走り続けて11:50頃にイフレン(Ifrain)に到着した。イフレンは標高1650mに位置しており、フランス保護領時代の1929年に保養地として建設され、現在は国王や政府要人の別荘地となっている。周りの建物なども今までのモロッコ的なものはほとんど無く、ヨーロッパの街のようであった。

 イフレンを過ぎると、周りの景色は高原の様相を呈してきた。とてもアフリカを走っているようには思えなかった。峠に差し掛かるころには、周りには残雪が見受けられるようになり、少し不安になった。はるか彼方には雪を被ったアトラスの山々を望むことが出来た。道の脇に2人の警官が立っていたので、道を訪ね記念撮影をした。警官は私のライダージャケットなどに興味を持ち、値段などを聞いてきた。少しの間雑談をして、峠を後にした。

 N8はアトラス杉の林の中に入っていき、林を抜けると残雪が至る所に残る寒々とした景色になった。山の斜面に雪がある様相はまるでゲレンデのようであった。ほどなくしてN13との合流点に差し掛かったので、N13に乗り換え、南を目指した。ゲレンデのような景色が続く中ひたすら走り続け、ミデルト(Midelt)という街に到着した。ガソリンが空になりかけていたので補給し、記念撮影をしていると、男が近づいてきて、私が日本人であることがわかると、「俺の家に来い」などと言ってきた。この類の誘いは怪しいので、「先を急ぐ」と言ってその場を離れた。

 私が目指していたのは、南部の砂漠地帯の手前にあるエルフード(Erfoud)であった。ここまでたどり着いてしまえば、翌日にはサハラ砂漠に容易にたどり着くことができると考えたからである。しかし、まだフェズからエルフードまでの道のりの約半分しか消化していないので、先を急がなければならなかった。ミデルトを過ぎると、周りの景色は荒涼とした荒野になってきた。Hammat Mulayというところに差し掛かったとき、その景色に圧倒された。

 

 

ズィズ川(Oued Ziz)を挟んだ両側の渓谷が、グランドキャニオンのテーブルマウンテンのような様相を呈していたからだ。ここはズィズ渓谷(Gorges du Ziz)というところである。先を急いではいたが、思わずバイクを停めて記念撮影をしてしまった。モロッコ人の男がやってきて「街まで乗せてくれ」と言ってきたが、パニアケースを設置していて二人乗りが出来ないため、その依頼を断り先を急いだ。時刻は16:00になろうとしていた。

 N13からN10に合流し、エル・ラシデイア(El Rachidia)を素通りしてまたN13に乗り換え、ひたすら南を目指した。N13はズィズ川と並行する様に南に延びていた。川の流れるN13の右手には、ナツメヤシが生い茂るオアシスの集落が点在していた。いよいよ砂漠地帯に入ってきたのかと言う実感が沸いてきた。

 

 

 

途中のオアシスにて記念撮影をしていると、どこからともなく少年が自転車でやってきた。記念撮影をすると金をせびってきたので、日本から持ってきたキャンディを与えてその場を立ち去らせた。しばらく景色を眺めた後、辺りも暗くなってきたので先を急ぐことにした。時刻は17:20になろうとしていた。

 しばらく走ると夕日が沈み、ますます暗くなってきた。さすがにまずいと思い、寄り道せずに走り続けた。ヘッドライトをハイビームにして何とか視界を確保した。空がすっかり真っ暗になるころに、ようやく街の明かりを確認することが出来ほっとした。18:30頃にエルフードの中心部に到着した。ムーレイ・イスマイル通り(Ave.Moulay Ismail)をしばらく徘徊し、バイクの駐車も何とかなりそうなホテルを見つけたので、今夜の宿をそこに決めた。(Hotel Ben Hama、250DH) 部屋はこじんまりとしていたが床やバス・トイレも綺麗で過ごしやすそうだったのでまあ満足のいくものであった。

 しばらく部屋で休憩した後、フロントにサハラ砂漠ツアーを扱っているのかを尋ねた。そうするとホテル1階のレストランのウェイター(小●博之に似ている)が、おれの兄弟を紹介すると言ってきた。そのウェイター(小西●之に似ている)は、早速電話連絡していた。10分ほどでこのホテルにやってくると言う。しばらくロビーで待っていると、ベルベル人の民族衣装を着た男がやって来た。その男曰く、「俺はベルベルの民」で「家族がサハラ砂漠に暮らしている」そうとのことであった。ホテルの外のテーブルに座り、彼に私の希望を話した。エルフードを夜明け前に出発し、砂丘で朝日を眺め、午前中にエルフードに戻ってくるというものである。それに対して彼の示してきた見積もりは、4WD車で1200DHというものであった。それは私には高すぎる値段であった。しかしながらこの時期は人数が集まらないらしく、1000DHまでしか値段を下げられないとのことであった。さすがにこれ以上話しても平行線になるだけと思われたので、この話は断ることにした。

 その後、街中に出て少しばかり徘徊した。ホテルの隣のバーに座っていた兄ちゃんにサハラツアーについて話しかけられたが、先ほどと同じ条件だったので断った。続いて、F.A.R広場前の民営バス乗り場あたりをしばらく歩き、オテル・サーブル・ドールの隣の商店前を通りがかったときに、男に声を掛けられたので、表のテーブルに腰掛けた。彼は「サハラツアー?」などと言ってきたので、私は先ほどと同様の希望を話した。彼は雑談から入り、日本人ツアー客の写真を見せながら、サハラの魅力をアピールしてきた。雑談の後で最初は4WDで1000DHを提示してきたが、断ると今度はノーマル車で400DHという見積もりを提示してきた。ノーマル車では砂丘を走ることは出来ない。これではわざわざ車をチャーターする意味がないので、その話を断り席を立った。

 22:00前にホテルに戻ると、レストランのウェイターが、バイクをホテル入り口のテラスにバイクを停めるように言ってきた。路上にバイクを停めておくのは不安だったので、彼の勧めに乗ってバイクをテラスに入れた。その後、空腹となったので、レストランでモロッコサラダ+モロッコ風ハンバーガー?+コーラ(15+20+8=43DH)を注文した。今日は朝食以来何も食していなかったので素早く食した。食後、この日は走り続けて疲れ切っていたのでシャワーを浴びて就寝した。

(走行距離:411.4km)

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